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通訳者Mのブログ

通訳と、人生と。

いつか〇〇は今から仕込まないと

現アメリカ国防長官ジェームズ・マティス氏。warriorと呼ばれるのには異論はないそれだけゴツイ経歴。(というと失礼だけど、アメリカ近代史に残る一連の戦争で戦っているわけだからワイルドなおじさまでしょう)とりあえずこちら読んで頂ければ分かるので詳細省きます。が、

 

海兵隊卒で国務長官で、warrior monkと呼ばれるのは相当セクシーだとおもう。

 

私のアタマの辞書でセクシーというのは、官能的の方ではなく、知的な魅力が高い人のことを想う。

 

正反対の世界でしょう。warriorとmonkって。

彼の知性が高く評価されているのは数千冊にも及ぶ読書をしてきた結果というか、自然のなり行きですよね。

 

 

1週間に一冊じゃあぜんっぜん間に合わないじゃん!

 

それだけ知的な方がいつかスピーカーとして参上する日が来るかもしれないのだから、通訳業って本当におそろしく、魅力が尽きない仕事だと思う。

 

日々精進なり

退いて判る

ひいた方がよく見えますね。

 

人の顔も

素敵な絵画も

スピーチも

 

逐次通訳するときには、ひいて、鳥の目で、耳で、拝聴する、と。

One must understand the Scope Of Work.

木村拓哉NHK朝イチに今朝出ていた。家事ながらに聞いていたら、いいことを言っていた、というか彼も他の誰かに言われたようだったけど。

 

おまえが歌っとると思ってるやろ、違うでそれは。聞く人おらんかったら、歌えへんのや。おまえは生かされとるんや。

 

 

通訳者も本当にその通り、というかどの職業もそうよね。需要があって初めて成り立つ。

 

通訳が必要、と思う人がいるから通訳者というポジションがあるから。

 

 

 

通訳学校で、もしくは独学でもよいけれど、どれだけ元の音声リソースに近いか、どこを拾えきれなかったか、どこのニュアンスが出せていないか、そういう指摘が入る。

 

 

ちなみに練習しているときはそのくらい完璧でいいと私は思っている。通訳学校の中には同時通訳8割出せばよいと教えている所もあるようだけど、それは結果論かな、と。本番は緊張やらなんやらで実力の2割減しか出せないだろうから。8割を目指せば6割になってしまうから。

 

 

いい意味での重箱の隅をつつく訓練をしていると、もう片方の言語の訳を、英語であれば日本語を、日本語であれば英語を、静かに切に求めている人がいることを忘れる時がある。

 

常に実験場に立たされているような、試験会場にいる、そんな仕事に感じてしまう。

 

 

自分はまだまだ、と思っていれば思っているほど『私がこんな訳をもう一度同じ時間かけて言わなくったって、どうせ皆分かってるよね』という気分になってしまう。

 

 

でもそれは違う。

通訳を必要とする人がいるから、この仕事は成立する。

 

 

 

それでも『私のこの訳を言わないよりは言った方がいいのかしら...』そのくらいに思うなら(もちろん自分含め)、帰ってからウジウジして反省して対策を立てればいい。聞く人から見たら、通訳者がキャパシティあっぷあっぷでやっているのか、余裕綽々か、どうでもいいこと。どちらにしても通訳者なら両言語100%理解している、と思われているから。

 

 

その100%理解していることは大前提で、『是非私の8割の理解力で理解出来なかったところを聞かせて欲しい。』それが可能だから通訳者にわざわざチープではない額を払うわけです。 

つまり他の人たちなら拾えない残り10%、1%を拾うことを期待されて報酬が出るわけです。

 

だから、

 

はったりでいいとかではないですけど、萎縮して『間違ってたらすいません』ムードを醸し出すのは、通訳者の仕事範囲(スコープオブワーク)には入ってない、ってこと。

one shouldn't follow in tow right behind them.

英語は音楽のようで、液体のよう。流れていて、流動的で、発音も雲のように流れる。

 

日本語は、習字のよう。滑らかに動く筆のように見えて、最後は

 

ーです。

ーます。

 

でしっかり止めないといけない。

小学生で漢字をならった際に、適当に流さずに止めるところは止めなさい、と言われたことを思い出す。

 

 

私にとって、この日本語の特徴が英日同時を苦手と思わせているのかもしれない。

 

英語を適当に話しているわけではないけれど、流れていくような英語に合わせてぱしっぱしっと日本語をはめていく作業は、日英同時に比べて難しく感じる。 

 

スイスイ泳ぐように飛ぶ龍の背中にがっしり捕まっていたら衝撃は強すぎて堕とされそうになる。だから少し精神的に距離をおいて、訳す。

 

正確には訳すが、文章にがちがちにくっついていると振り落とされる。

どうしたら緊張しないか。

通訳者でいる限り、人前でその場勝負の商品を提供しなければいけません。うんうん唸って何回もやり直しをしてからスムーズな美しい訳を出しても、決して美しくありません。

 

 

通訳とは不可逆的な作業でもあります。一度出したものを消すことは出来ず、修正するには追加するしかありません。

 

 

通訳は即興スピーチと似ています。セリフはすべてスピーカーが話してくれるので、違う言語にするだけですが、即興で分かりやすくすっと耳に入るように聴衆に話す、という意味では似ています。

 

 

 

通訳パフォーマンスの良し悪しには様々な要素が絡み合っていますが、『緊張』と深く結びついていることに誰もNOとは言えないと思います。

 

 

通訳者という仕事をやり始めて、この辺は常に自問自答してきたところです。

どうしたら緊張しないで実力が出せるだろうか、と。

緊張する度に、考えてきました。

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なぜ緊張するのか?

 

→「うまい通訳だと思われたいし」

→「失敗絶対出来ない..」

→ということはいつもの自分よりよく見せなきゃいけない

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まず一つ目。通訳者本人がどう思われるかは、仕事中は考える必要ありません。そんなことを考えているから集中出来ないのです。うまい通訳かどうかは聴衆が決めることであって、コントロール外です。この段階に来てうまい通訳をしたいと思うのはtoo late 

→自分の仕事を全うしよう、と思うことです。通訳者で言えば、スピーカーが話したことを聴いている人に伝える、それだけ考えればいいんです。そうすれば自然と目の前のことに集中出来る。

 

二つ目。失敗は、します。振り返って、結果として失敗がなかったね、ということはありますが、ロボットではないのですから失敗する可能性も一定程度あります。この段階に来てロボットのように正確性100%を狙うこと自体、i am wrong  you are wrong 

→自分の仕事を全うしよう、と思うことです。上のコピペではありません。本当に重要なことなんです、自分のやるべきことに集中するというのは。自分の仕事に集中していれば、失敗しても、しかけても、途中で素早く軌道修正出来ます。

 

三つ目。

→別によく見えなくてもいいじゃん。等身大で戦えばいいじゃん。よく見せようとしていても結局、等身大で戦っているんですもん。普段やっていないことは本番でやってはいけません。普段やっていることの延長に本番があります。

 

 

とにかく緊張していることに動揺しないことです。人前できちんと仕事をしようと思っていれば誰でも緊張はします。手に汗をかくのも、人間がまだ猿だった時代に襲われた際、素早く木に登れる為なようです。汗はふいても出るでしょうね、本能だからね。

 

 

 

自分でもつくづく思いますが、「今」に集中するとはそれだけ難しいことなんでしょうね。 

 

日々精進しませう。

いえい

勉強するための季節

コーデュロイのロングスカートに

ブラウスを着て

テラス席で読書出来る季節になりました。

 

うれしいぞー

 

勉強に励みませう

 

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600円のざるそばをすすりながら通訳の難しさを想う

あまり世離れしすぎると良くないと思いますが、今まで出来なかった生活をするのは新鮮で新たな発見があります。

 

オーディションの日が大切な人の月命日でした。当日お墓参りしてから行きたかったのですが、時間も天候も合わず、気になっていた為に報告も兼ねて、お墓参りをしてきました。いつもは首都高速に乗って15分くらいのところを電車15分強、徒歩15分で。

 

神奈川県の見知らぬ街の商店街を通って、川を渡ります。

 

平日の真昼間から時間を気にせずお墓参りに来ている私も社会の基準に照らせば異質でしょうけど、平日14時に川沿いをジョギングする人、夕方16時に下校する高校生たち、町のパン屋さんで近隣のお客様と語り合って働く人、お蕎麦屋さんで昼間から生ビールを注文する工事現場のお兄さんたち。

 

 

自分が過去一年間、東京ど真ん中のオフィスビルでカツカツ走り回っている間にも、こんなに人間的な営みをする人たちもいるんだ、こういう生活って存在するんだ、ということをなぜだか改めて感動した一日でした。ありふれた日常の中にある人間的な交流を見た気がしました。

 

 

 

 

 

通訳者がいらない日が来たらいいのに、と思います。通訳者を介すコミュニケーションで隔靴掻痒の思いをする人は、正直少なくないと思います。

 

 

通訳者としてはもちろんその壁を取っ払う努力をするんだけども、その壁は二言語以上に長けている人が思う以上に簡単には取り払えるものではないと私は、思います。それは話されている言葉ではなくて、音楽でいうと間奏や伴奏の部分。そこが難しい。言葉という形ではなく、ニュアンスで出てきてるものをどれだけつかんで向こう側に渡すか。間奏や伴奏抜きでメロディーだけ流されても、冷めます。

 

 

 

言葉をどれだけ流暢に、かっこよくスムーズに訳せるかは、誤解を恐れずに言えば、通訳者を必要とするオーディエンスにとっては一番重要なことではないかもしれない。

 

 

なぜ通訳者が必要か?それは相手の言っていることを同じ言語だったら理解していただろうレベルで理解したいと思うから。人間の基本的な欲望だと思います。

 

 

だからスラスラ訳して、それでokだと自己満足に陥る通訳者にはなりたくない。なんの為に自分の仕事があるのか、心して仕事にかかりたい。

 

 

そんなことを今日、あの商店街でざるそばをすすりながら考えていたわけです。